1996年9月13日、
2パックことTUPAC AMARU SHAKURは、
この世に永遠の別れを告げた。
享年25歳。
普通に考えれば死ぬにはあまりにも若すぎる年齢だ。
しかし、
彼は自分がそう長くは生きられない事を知っていたかの様だった。
「誰かが俺を殺ろうとしている」
日増しに強まる強迫観念と、
それでも見えない敵に屈するまいとして
世間に毒づいてまでも闘う姿勢/反骨精神・・・
それらが一体何だったのか。

PART ONE
DIGITAL UNDERGROUND - 2PACALYPSE NOW
DIGITAL UNDERGROUND
 1971年6月16日、NYのハーレムで2パックは生まれた。本名のトゥパック・アマル・シャクールは、16世紀最後のインカ皇帝の名から取られたもの。
 彼の母親=アフェニはブラック・パンサーのメンバーで、200以上にものぼる罪状で69年に逮捕されたが、71年に免罪判決を受けた後に彼を産んでいる。
 その後、彼ら兄妹と母親はハーレムやブロンクスのプロジェクト(=低所得者居住地域)に移り住む。この頃から彼は自分の父母(ちなみに実の父は未だ判らないそう)や周りの者が、クラックに手を染めている光景を“日常の普通の出来事”と受けとめるようになっていた。
 彼はそんな自分の周りの事、ストリートの出来事を早くから“リリック”として綴っていた。その才能、表現力に気づいたからか、母は彼をハーレムの劇団“127 STREET ENSENBLE”に入れる。そして彼は12歳で殿堂アポロ・シアターのステージに立つ事になる。その後、家族はボルチモアへと引っ越すが、彼は新しい高校でも演劇を学ぶ。
 だが、ここで彼にとっての大きな転機が訪れる。同じく演劇を志していた学友が事もあろうに拳銃の暴発事故で死んでしまったのだ。彼はその身近な、しかも年若き者の死を見て、自分は世間に現実を伝えるラッパーになる、と心密かに決めた。
 一度そうと決めたら行動は早い。彼は高校を即中退し、単身ベイエリアへと渡りドラッグ・ディーラー等で日銭を稼ぎながら、“MCニューヨーク”というネームで活動を始める。ホームレス生活を続けながら、様々な金になる悪事をいとわず行い生き延び、その生き様をネタにしたライムを書いた。
 こうして地元で少しは知られる存在となった彼に今度は願ってもないチャンスが訪れた。既に人気の階段をかけ昇っていたデジタル・アンダーグラウンド(DU)が、彼らの行ったツアー・メンバーのオーディションに顔を出した2パックに目を付けたのだ。
 その場で認められた彼は90年にDUに正式加入し、ライヴ・ツアーで日本の地も踏んだ。こうして1991年1月に、彼はラッパーとしてDUの「Same Song」でレコード・デビューを果たす。同曲が収録された6曲入りミニ・アルバム[THIS IS AN E.P. RELEASE]は6週間でゴールド・ディスクを獲得する大ヒット作となった。


2PACALYPSE NOW
 あくまでもファンクをベースとした、コミカルなフレイバーが強いグループDUの中でも“LUNATIC”(キチガイの意)と呼ばれ、メンバー中唯一のギャング出身とされた彼は、DUファミリーとして彼らの2作目となるフル・アルバム[SONS OF THE P]にも参加するが、同91年の11月には、念願叶って初めてのソロ作となる[2PACALYPSE NOW]をリリースしている。
 同作のジャケ写にはDUのTシャツに身を包んだ彼の姿があり、実際ショックG、ピーウィ、ロウ・フュージョン等のDUファミリーがバックアップした形はとっているが、そこで示されていた彼の“ラップ道/やり方”はDUのそれとは一線を画す、“今の社会における黒人青年の生き方”すなわちストリート・ライフを描いたヘヴィな内容のモノだった。
 また彼は、そのアルバムの中でも「サツのやつらは黒人をみんなワルだと決めつけてやがる!」とさんざん吠えている通り、同作リリース直前にオークランド警察に対し、「不当な取り調べを受けた」として10万ドルの訴訟を起こしている。
 翌92年は晴れて2パックの“当たり年”となった。
 まずは、同年1月に公開された彼の映画初出演作[ジュース]が大ヒット。 特に、拳銃を手にしてしまった事から自己破綻に陥り仲間を次々と殺してしまうビショップ役のクールでハンサムな2パックに衆目がクギづけとなる。
 そのおかげで遅まきながら彼のソロ作もジリジリとセールスを伸ばし、イトコに娠ませられた少女が浴室で出産した赤ん坊を焼却炉に捨てたという実話に基づいて作った「Brenda's Got a Baby」は同年5月にR&Bチャート30位内に入るヒットを記録した。
 だが、好事魔多しとはよく言ったもので、同年2月にはテキサスで警官を射殺した少年が、彼のアルバムを聴いたからサツを撃ちたくなった、と発言。時の副大統領ダン・クエールが公の場で2パックと彼のアルバムを“社会悪”と断言し物議を醸した。つまり彼は、ここに至って既に“アイドル人気”と共に、有名税とするには余りにも重い“攻撃”を受けるスケープ・ゴートになっていたのだ。










PART TWO
STRICTLY 4 MY N.I.G.G.A.Z. - THUG LIFE
STRICTLY 4 MY N.I.G.G.A.Z.
 続く93年に彼は、ラッパー、アクターだけでなく、“問題児”としても更にその名を広めた。
 まずは同年2月にアイス・キューブ、アイスTやノーティ・バイ・ネイチャーのトレッチらが参加したソロ第2作[STRICTLY 4 MY N.I.G.G.A.Z...]がプラチナ級の大ヒットとなり、以後の“泣きの入ったメロウなトラックと、サグ・ライフ語り”という2パック・スタイルを確立した「I Get Around」と、当初はそのB面曲だった「Keep Ya Head Up」、後にサグ・ライフを組閣する実兄モープリームとの「Papa'z Song」を連続チャート・インさせる。
 アクターとしては、[ボーイズ・イン・ザ・フッド]を撮ったジョン・シングルトン監督の最新作にして、ジャネット・ジャクソンの映画初主演作として話題を呼んだ[ポエティック・ジャスティス]に、そのジャネットの相手役に選ばれるまでに。
 その反面、ゴシップ欄を賑わす事件も続出した。
 まず3月にはリムジンの中で彼がウィードをキメたことを諫しめた運転手と喧嘩となり、逮捕(告訴は後に取り下げ)。映画[ポケットいっぱいの涙/MENACE TO SOCIETY]から彼をおろした監督アラン・ヒューズに暴行をはたらき15日間の禁固。 4月にはミシガンで自分のスタイルをパクったとするラッパーをバットで殴打し10日間の禁固。10月にはアトランタで非番の警官2人を狙撃し、11月にはNYのホテルでファンの女性に“性的強要”をした、という容疑で起訴されている。
 こうした事件を通じて彼の“悪名”は益々知れ渡り、結果としてそれは“ギャングスタ・ライフを地でゆく危険な男”として人気を上げてゆくことになるのである。皮肉なことであるが・・・。


THUG LIFE
 結局彼は、その度重なる不祥事がもとで活動の幅を狭めざるを得ない身柄となったが、それでも彼の名前を聞かない日がなかった、と言っても過言ではなかったのが、この94年である。
 その幾多の事件のせいでジョン・シングルトンの次作映画[ハイヤー・ラーニング]の主役こそは降板させられたが、[ビート・オブ・ダンク/ABOVE THE RIM]は無事公開。
 サグ・ライフ名義で録った新曲「Pour Out A Little Liquor」をフィーチャーしたサントラもウォーレンG&ネイト・ドッグの「Regulate」等のヒットを連発し、200万枚ものセールスを記録する。実際、同年には彼のソロ名義作は陽の目を見ず、唯一のアルバムとなったのが、サグ・ライフの[VOLUME 1]である。
 その他、彼は様々なアーティストの作品に精力的にゲスト参加した。彼は自分を、自分の力を必要とする所には即、馳せ参じた。時にそれが“2パックという名前”だけが目当てだとわかっていた場合も、彼は“金のために”と割り切って東西奔走した。
 その性癖が悪かったのかどうかは判らないが、同年11月30日にロンGのミックス・テープ用のフリー・スタイルを録った後、今度はリトル・ショーンのレコーディングに参加するよう呼びつけられ、到着したタイムズ・スクエアのスタジオの外で、彼は何者かによって5発もの銃弾を浴びせられる。そのうちの1発は頭部もかすめたが、幸いにして一命を取り留めた。
 しかし、彼はこの事件をその時スタジオにいたアンドレ・ハレル、ショーン・パフィ・コムズ、ノトーリアスBIGらの仕業じゃないか、と勘繰るようになる。
 特にサグ・ライフに当初は在籍していたとされているBIG=ビギー・スモールズに対する憤りは凄まじく、「アイツはオレのプレイヤー語り/スタイルを真似てるだけだ」とイキまいた。しかしながら、この場に居合わせた関係者全員は犯人との関係も一様に否認。被害者2パックは重傷ながらも、わずか3時間で病院を強引に退院し、その事件の翌日に車椅子姿で例の“レイプ事件”のために法廷に現れ、皆を驚かせた。






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