凶弾に倒れ、1996年9月13日に息絶えたラッパー、トゥパック。半年後に同じように殺されたノトーリアスBIGとともに二人は究極のギャングスタ・ラッパーだった。時代がヒップホップに「リアルさ」を求めた時、荒廃したゲットーという身近な現実を二人は見事に「虚構」として生きたのだ。しかし、それには大きな危険が伴ったのである。二人の死によってギャングスタの隆盛は確実に終焉を迎え、さらにヒップホップ自体が二度と引き戻せない地平にまで引きずり出されてしまったことも確かなのだ。
 史上最大のスターを二人も銃撃されて失ったことで、ヒップホップはみずからの表現の誠実さを普遍的なものとして、世に問わなければならなくなったからだ。
 しかし、世の中を呪うトゥパックの弾丸のような言葉があそこまで世界を魅了してしまったのはどうしてなのか。ゲットーを通り越して、その言葉が広く共鳴したのはどうしてなのか。いずれ、ヒップホップもその特殊性を失い、ポップ・ミュージックにおけるありきたりなアイテムの一つとなる日も来るのだろうが、その普遍化の始まりにはこんな物語があったのだということを私たちはいつまでも忘れないだろう。



 トゥパックは極端なものがすべて詰まったラッパーだった。ある時は温和で繊細、その次の瞬間には冷酷で、かんしゃくを爆発させる。
 こんな取り合わせの起爆力がトゥパックを最も危険なラップ・スターの座へ押し上げたのである。[ローリング・ストーン]誌はトゥパックを預言者と呼び、ボブ・ドール議員は疫病神と呼んだが、どちらも的を得た形容だった。誰にも飼い慣らされないトゥパックは、アメリカに住む黒人男性にとって一つの神話を体現する存在だった。「俺は若いニガを救済するんだ」とトゥパックはかつて言った。そして、みずからをソウル・ジャー(魂の救済者)にかけて、ソルジャー(戦士)と呼んだ。
 この呼び名はまさにトゥパックにとってはうってつけのものだった。トゥパックは戦争の最中に産み落とされた子だったからだ。

 その戦争の発端は、アメリカの人種問題における重大な局面を示したある事件にまで遡ることができる。きっかけとなったのは1968年に起きたオーシャン・ヒル=ブラウンズヴィル教職員ストである。
 ある側についたのは白人とユダヤ系が圧倒的な全米教職員連盟の組織員で、それに対抗したのが数千にも及ぶ、黒人かプエルトリコ系の貧しい生徒たちの父母だった。

 そんな騒動に巻き込まれたのが、ノース・カロライナ州の家政婦の娘で高校を中退した21歳のアリス・フェイ・ウィリアムズだった。アリスはこの学校に通う生徒の叔母だった関係から、教員が職場を放棄している間、代理教員として教壇に立った。
 スト問題で双方が中傷と非難に明け暮れた数ヶ月後、かつてキング牧師が率いた公民権運動の連帯感も失われつつある状況のなかで、アリスは新しいペルソナを獲得して生まれ変わった。ブラック・パンサー党党員アフェニ・シャクールとなったのである。


Afeni Shakur アフェニはブラック・パンサー党の創立メンバーであるルムンバと親しくなり、党員の間で頻繁に使われる「抑圧者の豚どもを殲滅せよ」という文句を、覆面警官が潜伏していそうなところでも頻繁に口走るようになった。
 間もなくして散弾銃で武装した捜索隊がアフェニの自宅に踏み込んだ。容疑は、アフェニと同志二十名が人種間内乱を画策しているというものだった。

 仮釈放後、アフェニは妊娠した。父親はルムンバではなく、確定できないということだった。ところが、ともに起訴されていた同志らが転向し罪状を認めたため、再び身柄を拘束されることになったが、それでもアフェニは中絶を考えなかった。
 大きくなり始めた腹を叩いては「これがわたしの王子様よ。この子が黒人の国を救うのよ」と アフェニはよく自慢したという。

 ブラック・パンサーが壊滅されかねない存亡の危機がかかったこの裁判で党を救ったのは、「ポケットにでもつめこめそうなほど華奢な」このアフェニに他ならなかった。みずから弁護士的な立ち回りをしてみせたアフェニは検察を逆に質問攻めにしてしまったのである。陪審員はアフェニにかかった156件の罪状をすべて20分以内で無罪放免と判断した。
 その一ヶ月後の1971年の6月、アフェニは男子を生んだ。双子座に生まれたその子をアフェニは、古代インカ語で輝ける龍を意味する言葉にちなんでトゥパック・アマルと名づけた。これはまた、18世紀にスペインの植民地統治者に八つ裂きの刑に処されたペルーの反乱指導者の名前でもあった(96年にペルーで日本大使館を占拠した左翼過激派も同じトゥパック・アマルという名前を掲げていた)。


Tupac Amaru 赤ん坊を抱えたアフェニはニューヨークのブロンクスに居を構えた。息子は聡明で、礼儀正しく育った。叱りつける時には罰として[ニューヨーク・タイムズ]紙を手渡し、一面から社会面まですべて棒読みさせるというしつけの賜物だった。トゥパックはいつも「遊びを持ちかける」活発な子だったとアフェニは言う。

 しかし、生活は苦しかった。アフェニがトゥパックの生まれた二年後に、妹のセキワを生むと生活はさらに困窮した。セキワの父親であり、パンサー党員であったムトゥル・シャクールは、やがて60年の禁固刑を言い渡される武装強盗へと繋がる道をひた走っていて、家族を支えるどころの話ではなかった。
 トゥパックの名づけ親であったパンサー・ジェロニモ・プラットも刑に服していて 力になれなかった。唯一、家族の身近にいた男性がアフェニの愛人・通称”レグス”で、レグスはハーレムの麻薬の元締めニッキー・バーンズとの付き合いもあったと噂されている人物だった。のちにトゥパックが「あれが俺の中のヤクザの原点なんだよ」と語っているように、トゥパックにとって、このレグスこそが唯一の父性的な男性像となった。

 もちろん、アフェニがトゥパックに示す生き方はヤクザとは別なものだった。
 その証拠に「君は将来、何になりたいんだい?」と牧師に訊かれた十歳のトゥパックは即座に「革命家だよ」と答えたという。しかし、アフェニの収入では日常用品でさえ贅沢と思えるありさまだった。そんな生活の現実についてトゥパックはかつてジャーナリストのケヴィン・パウエルに「家族で革命だ何だって盛り上がってんのはいいんだけどさ、ま、そんなことしてる俺たち一家は飢えてるわけだ」と語っている。

 この家庭に存在した数少ない贅沢は、たとえば、アフェニが図書館から持ち帰ってくるゴッホの[星夜月]の複製画などで、そうした絵は少年トゥパックの関心を何時間でも惹くものだった。あるいはアフェニがトゥパックをハーレムの劇団に入団させたのもトゥパックにとって、かけがえのない逃げ場になった。


Tupac 1988 しかし、アフェニはやがて仕事にもあぶれ、頼みのレグスもカード詐欺事件で刑務所に送られた。生活保護を受けながら、一家は住む場所を転々とし、ホームレス用の宿泊所の世話になることさえあった。どこへ行っても繊細な容姿のトゥパックは「かわいい」ことでちょっかいを出され、名前のせいで「トゥーブ・ソック(踵のないフリー・サイズの靴下)」「トゥバキュローシズ(肺炎)」などとからかわれた。

 「毎日、着たきりスズメで、ジーンズは穴だらけだし、スニーカーもぼろぼろで、とにかく、トゥパックなんてやつはやめたかったよ。ジャックだとかさ、そんなやつに俺はなりたかったんだ」とトゥパックはライターのウィリアム・ショーに語っている。

 やがて一家は、電算機処理の仕事を紹介してくれるという親類のつてを頼ってボストンへ流れ着く。ボストンへ着くとアフェニは刑務所にいるレグスに電話を入れるが、レグスがクラックの後遺症による心臓発作で41歳で他界したことを知らされた。

 「まったく、泣く気にもなれなかったよ」とトゥパックはパウエルに語っている。
 「世の中をどう渡っていきゃあいいのか、それを教えてくれる父ちゃんが欲しいって思ってたのに一人もいねぇんだからさ」


 しかし、その代わりにトゥパックに与えられたのはアフェニの努力で実現した、舞台芸術の名門校、ボルティモア・スクール・オブ・アーツへの入学許可だった。
 ここでトゥパックはいくつかの制作物で主演をとるようになり、またラップに本格的に取り組むようにもなった。既に自分の身の回りのものを詩という形で書き残すようになっていたトゥパックにとって、ラップは自分の人生経験を綴る日記のような意味を持つようになった。
 「この学校で満喫した自由は、それまで感じたことがないようなものだったよ」とトゥパックは語っているが、高校課程の二年目が終わろうとする頃、近所の男の子がギャング抗争の末の撃ち合いで絶命するという事件が起きると、子供たちの身の安全を考えたアフェニは夏休みをサンフランシスコ郊外のマリン郡で過ごすように、友人宅へ兄妹を預けることにした。
 間もなくしてアフェニはその友人がアル中リハビリ・センターへ入院したと知り、自分もマリン郡へ向かった。アフェニが現地に着いてみてわかったのは、平穏な郊外の住宅地だろうと考えていたその地域が、マリン・シティと呼ばれる荒んだゲットーだということだった。
 警察はこの一帯を単純に「ジャングル」と呼んでいた。

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